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1974年 Queen Ⅱ UK Tour

2021.3.29 追加更新

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イギリスでの初のヘッドライナーツアーを終えたクイーン。

当時の様子がわかるNME1974年4月27日号の記事を和訳しました。

少し長い上にきちんと訳せている自信もありませんが、ぺた。

ピリピリ?ヘアスプレーの戦い

クイーンのフレディ・マーキュリーの健康状態がよくないことは誰の目にも明らかだ。髪は巻かれておらず、上唇には痛々しいヘルペスができ、あろうことかBibaのネイルを片手に塗るだけの気力もないようだ。
マーキュリーはカメラがアップになると「できたら写真からヘルペスは修正して。」と頼んできた。


根回しされたようにも聞こえるが、好意的にも取れる。なぜなら前回会った時は「水仙のようにゲイ(派手)」と言って、バッキンガム宮殿を前に水仙を手に嬉しそうにしていた。堂々とポーズをとり、シャツの裾をなびかせ、毛深い胸があらわになった。


UKツアーはマーキュリーのエネルギーを絞り浮くした。喉頭炎に伏した彼は、モットとクイーンの2ヶ月に及ぶアメリカツアーに赴く前に、わずか数日の精神的肉体的回復期間を得た。


要するに彼は相当に精力を削がれている。UKツアーの直後にUSツアーともなれば回復は絶望的だ。


「話し合ったのにこうなんだ、前と同じだよ。2週間は休みが欲しいところだけど、やるしかないんだ。8週間の重労働になると思う。でもキャリアとしてそういう時期にあるし、やるしかないよ。名声を得たらあぐらをかかせてもらうとするよ。」


彼は動きを止め、先程の発言は不用意だったと感じたのか、慌てて「裏を返せば、見返りを得るために、それだけ努力しているってことなんだ。ここ数ヶ月、必死に働いて、倒れるまで働いて、もう肉体的にも無理なんだ。」


マーキュリーはレインボウのギグの後に調子を崩したようだ。「朝起きたら、サッカーボールを飲み込んだような有り様だった。こうなったら喉を休めるしかないよね。」


UKツアーは公演数も多く、忙しすぎたとは思いませんか?「そうだね、ヘビーなツアーだったよ。でもそのおかげで1夜にして別の次元へいけた。やらなきゃならないツアーだったし、やり遂げたって思っているよ。次のUKツアーは好きなようにやらせてもらうさ。」


「このツアーでは、ちょっ大きめの会場が抑えられていて、公演時にはアルバムも出した、テレビでちょこっと紹介されたりもして、全てがエスカレートしてたんだ。もう少し待てば全部を大きな会場でできたかもしれないけれど、タイミングの問題だよね。まあ、あのタイミングでツアーをやれてよかったよ。」


「精神的にも肉体的にも厳しくって、音楽以外にも気を遣わなきゃいけないことがたくさんあったんだ。ローディーを何人か解雇して雇い直さなきゃならなくてさ、ツアーの最中に新人が入ったから、急いで仕事を覚えてもらわなきゃならなかった。実際、死にかけた夜もあって『ああ逝ったわ』って思ったよ。グレイハウンドのギグがその1つだね。疲れきってボロボロだった。やれるだけのことはやったし、僕らを知る人はわかってくれたけど…」


この状況はバンドメンバー全員が、マーキュリー曰く『すごくピリピリ』していることもあり、更に自認する短気も加わって改善は難しい。「僕はすごく感情的だよ。前は少しは間を置けたけれど、今じゃみんなカリカリしててすぐブチ切れちゃうんだ。言い合ってばかりだけど健全とも言えるよね。本質に迫まって最善策を探れる。でもここ最近はいろいろありすぎて、手っ取り早くなりがちなんだ。僕は間違いなくキレやすいよ。」
「どこかで線を引かないとね。いつだって体裁を第一に考えている、ベタだけど本音だよ。最近、自分らしくないと思うんだけれど、物を投げちゃうんだ。この間も人にグラスを投げつけてしまった。何年かしたら狂っちゃって、頭のおかしいミュージシャンになってしまうかも。」


だが意見の相違はバンドがステージに上がるときには解消されるようだ。マーキュリーは順風満帆とはいかなかった夜を回想する。


「ブライアンとロジャーが出る前にヤバい事態になったことがある。ちょっとしたことだったのにさ。バカバカしくもあるけれど、僕たちの緊迫具合が現れてもいるよね。ロジャーがヘアスプレーか何かをブライアンの顔に吹きつけたんだ。殴り合い寸前さ、小さな更衣室はすごく暑くなって、事態は雪だるま式に膨れていったよ。その次の瞬間には開演のテープが流れてた。」


この話をしているとき、マーキュリーに対し不思議な気持ちになった。つまりステージでは我が物顔の尻軽女だし、オフステージでは芝居がかったうぬぼれ屋だけど…実にいい奴なのだ。


彼はインタビューにおいて不用意なのだ。誤解を招くような話し方をするし、明け透けにからかわれるような事を口走る。バンドがプレスにされた仕打ちもこれで説明がつくだろう。


「ある意味、僕らは格好の餌食だろうね。他のバンドより早く人気が出たし、先月はどのバンドよりも話題になった。だからしょうがない。率直に言わせてもらうと、酷評は一番に受け止めるよ。よい評価ばかりではダメだしね。でも調べもせず、不公平で不誠実な評価をされると腹が立つ。」
USツアー後、バンドはイギリスに戻り3枚目のアルバムをレコーディングする。スケジュールとしてはそうなっているのだが…マーキュリーは『死にそう』と述べている。


アルバム完成後は再度アメリカに戻り、10月頃にはイギリスで一儲けの予定だ。骨は折れるだろうが、財政的にクイーンをさらなる高みに引き上げること請け合いだ。すでにアメリカで彼らはかなりの話題となっている。アメリカ人のマネージャーが一役買っているのは間違いない。ファーストアルバムは15万枚のセールスを記録し、セカンドはツアーにあわせてリリースされる。


イギリスの多くのバンドとは異なり、彼らは機会を伺ってモットと同じ舞台に立ち、確実に大勢を取り入れようとしている。


ここから先は問題なさそうなので過去について尋ねてみる。例えばマーキュリーという男はどのような家族背景を持っているのだろう。
「中流だよ。ミュージシャンは今や社会拒絶者じゃない。君が思うような、僕に大金を注ぎ込む上流階級の両親はいないし、甘やかされてなんかいないよ、全然。両親は厳しかったし、一人っ子じゃなく妹もいる。9年全寮制の学校にいたから、両親とはあまり会えなかったんだ。そういう背景で自衛を学べたんだ。」


寄宿学校…それにまつわる話ときたら、粗野な同性愛が横行する場などといわれるし、フレディ・マーキュリーの話だとすれば、正直びっくりさせられる。


その話題を振ると…
「寄宿学校はそんな場ではないと言うのは馬鹿げているよ。多かれ少なかれ事実さ。イジメも何もかもね。怪しい校長に追いかけ回されたりもした。ショックを受けなかったのは寄宿学校では対峙はさせられず慣らされていく。そういうものなんだ。」


誰もが寝たいと思うような美少年だった?
「妙な事に、そう。誰もが通る道だよ。うぶな子(arch poof)って言われてた。」


ということはそっちより?
「食わせ物だな。こう言おう、僕にも若くて青い時代がありました。男子学生の通過儀礼だよ。いたずらの経験はあるけれど、それについてこれ以上説明する気はない。」
あーあ、うまくいっていた矢先だったのに。

1974年4月27日号 『New Musical Express』 p.10 by Julie Webb

上記のNME記事の内容は、後年、黒田史朗氏の本に一部拾われています。黒田氏の著書の中では、記事のライターであるジュリーさんが当時を振り返っています。重なる部分も多いですが、クタボロのフレディの様子がよくわかるので、こちらも併せて貼っておきます。

 

ひたすら文字の羅列でごめんなさい!

くたぼろ.jpg

引用文中で触れられている、1974年3月16日、スターリング大学講演の事件は、3回目のアンコール後に、4回目のアンコールを求めて観客が暴徒化。2人が刺され、クルーも2人重傷を負ったそうです。クイーンのメンバー4人はキッチンに逃げ込み無事。しかしステージはめちゃくちゃ、当然4回目のアンコールには応えられないどころか、翌日予定されていた公演も中止(4/2に延期)となったそうです。
記事はこちらは→"Melody Maker" 1974年3月23日号
 怖いって。

めちゃくちゃ長いポストになってしまいましたが、最後にNMEの記事にあった「テレビにもちょこっと出た」の動画を貼ります。

ボロボロになりながらステージをこなす、若きクイーン。

んが1年後SHAツアーでは更なる激務が待っているなんてね。

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