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QUEEN U.S. TOUR '80

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長年にわたり、極寒の冬に行われていた、クイーンの北米ツアー。1980年は念願かなって6月30日より行われる。

ネットをふらふら彷徨っていたら、なんと、この北米ツアーのツアーパンフ全ページを見つけることができました。

(外部リンク、全ページはこちら→)

新発見などはありませんが、せっかくなので訳してみました。このツアーパンフを楽しむポイントは、なんといっても当時の勢い!飛ぶ鳥を落とす勢いのクイーンの快進撃。読んでいて胸すく想いです。

またツアースタッフ表。照明クルーにビル・リード氏がいたり、ポール

・プレンター氏にアシスタントがついてたり。「わ〜なんだろう♪ふっしぎ〜♪」とウフフな箇所もあります。

ささ、本文いきましょう。

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 「マンネリに陥るわけにはいかない。成功し続けるためには時代に合わせるか、そうでなければ時代の先を行き変化をしていかなければならない。」フレディのこの言葉はクイーンの哲学を表している。この哲学は、8枚の大成功を収めたアルバムを通して貫かれ、興行的には数回のワールドツアーと数多くのスマッシュシングルを放っている。


 クイーンは結成から8年間、レコードセールス、コンサート動員ともに、世界有数のロックンロールバンドへと成長した。一般向けに提供される音楽のバラエティが飛躍的に拡大している今、ディスコとパンクが猛威を振るう中で、チャートの上位に留まり続けることは、至高の存在にだけがなせる技だ。クイーンは確かに至高の存在なのだ。

 クイーンは4人がロンドンの方々の大学に通っていた1971年に結成された。バンドは音楽的なキャリアに執着せず、当時の他のグループがやっていたような果てしないパブ・ギグをするつもりはなく、代わりにショーの音楽的、演劇的な面で個人的に働くことを好んだ。唯一のコンサートは、友人を集めて行われる無料のプライベート・コンサートだった。

 

 その後についてはロックの歴史となった。自由にスタジオを使える機会に恵まれ、そのセッションから名曲 "Keep Yourself Alive "と "Liar "が生まれた。EMIはすぐにバンドと契約し、1973年の夏には''Queen''をリリースした。このアルバムはクイーンをレコーディング・シーンに定着させ、ここ10年ほどの間のロックミュージック界の最もエキサイティングな製作者として歓迎された。
 

 1974年、クイーンは読者投票で「バンド・オブ・ザ・イヤー」に選ばれ、その2ヶ月後には "Seven Seas of Rhye"と“QueenⅡ"がイギリスのチャートでヒット、読者の目が正しかったことが証明された。同年、モット・ザ・フープルのサポート・アクトとしてイギリスとアメリカでツアーを行う。このツアーは批評家や世間からの絶賛を浴び、グループは二度とサポート・アクト・ツアーをしないことを誓った。

 レコードの成功は続き、"Killer Queen"は瞬く間にイギリスのチャートでトップに躍り出ただけでなく、アメリカでの初のヒット・シングルをとなった。イギリスとアメリカでのクイーン初のヘッドライナー・ツアーは、ロック界の重要な改革者としてバンドを確立させた。

 照明、音響、衣装、フレディのバレエ的流儀、そして完璧な音楽は、すべてステージ上のクイーンの特徴だ。舞台での演出を重視したクイーンのコンサートは、単なるギグではなく、劇場型の催しなのだ。

 3rdアルバム "Sheer Heart Attack "はイギリスのチャートでトップを獲得し、アメリカと日本でもトップテン入りを果たした。世界中がクイーンにひれ伏し始めた1975年には日本ツアーを行い、その狂喜乱舞の騒動はビートルマニアのようでもあり、まるでバッキンガム宮殿のガーデンパーティーのようだった。すでに日英米の三大レコード購買国が支配下に置かれ、1975年は世界征服の年となった。

 驚異的な成功を収めたアメリカツアーの後、クイーンはイギリスの記録界にもどってきた。5ヶ月間に渡るレコーディングから、偉大な"A Night At The Opera"が生まれた。そのアルバムからの最初のシングル “Bohemian Rhapsody"は、6分長のトラックで、レコード業界の先見の明のある数人を含む多くの人が、成功するには長すぎると考えていた。しかし、彼らの考えはハズレ、 このシングルはイギリスのチャートで9週に渡ってトップに立っただけではなく、世界中の主要な市場で不朽のヒットを記録。更にそれ以前のどのバンドより、それ以降のどのバンドよりも多くの世界的な聴衆にクイーンを存在を知らしめた。


 1977年、イギリスのレコード業界は“Bohemian Rhapsody"を過去25年間のベストレコードに選出した。このシングルとアルバムは世界中の主要な音楽賞を受賞し、批評家の称賛は売り上げにも反映された。これはクイーンのキャリアにとって大きな転機となった。この時から、彼らの何千人もの忠実なファンの数は数百万人にまで膨れ上がった。

 クイーンは常にファンに対して親切で思いやりがある。1976年、バンドは初期の頃から応援してくれたファンに感謝の想いを伝える方法を模索していた。典型的なクイーンのやり方をするならば、感謝の想いを表すには壮大なスケールが必要となる。こうして莫大な私費を投じてロンドンのハイドパークでのコンサートが開催された。約15万人のファンを動員したが、これは控えめな見積もりである。栄光に驕ることのないクイーンは、"A Day At The Races "とスマッシュシングル "Somebody to Love "をリリースして1976年を終えた。

 1977年は、アメリカ、ヨーロッパ、イギリスでの記録破りのツアーから始まった。イギリスはジュビリーの年で、ロンドンの巨大なアールズ・コート・スタジアムで行われたツアー最終日のコンサートでは、いつも以上に特別な演出が行われた。それというのは重さ5,000ポンド(※2267kg)幅54フィート(※16.4m)、高さ26フィート(※7.9m)の有名な王冠(クラウン)であった。この王冠は、実際にはショーの最初にステージから多くのライトとスモークと共に上に上がり、バンドが別のセットを演奏する準備ができていることを明らかにした独創的な照明だった。ショーの最後には、観客が通路でごった返す中、王冠がステージに降り"God Save The Queen" に包み込みまれた。王冠は好評を博し、バンドはヨーロッパとアメリカのファンにもアールズ・コートでの経験を共有できるように、王冠をツアーに持って行くことを決めた。

 1977年の夏、ロンドンでレコーディングが行われた。すべてのクイーンのアルバムと同様に期待は高く、またもや全く違う革新的なものになるという噂が飛び交っていた。誰もが失望しなかった。"News Of The World"は、それまでのすべてのセールスを打ち破る。アメリカ、オランダ、ベルギー、フランス、イスラエル、カナダ、ブラジル、アイルランド、メキシコで1位を獲得。アルバムからの最初のシングル "We Are The Champions "も世界No.1を獲得。それはアメリカのチャートで3週間トップに立ち、200万枚を超えるセールスを記録した。"We Will Rock You "は当初 "Champions”のBサイドとして予定されていたが、この曲はアメリカで多くのエアプレイを受けたため、最終的にシングルはダブルAサイドとなった。このパターンはフランスを含め、いくつかの国で繰り返された。フランスでは "We Will Rock You "は12週間1位をキープしたが、その後は "Champions "に取って代わられた。アルバムのスリーブデザインは、すべてのクイーンのアルバムと同様に非常に特別なものだった。もともとのロジャーのアイディアは、アメリカの科学雑誌の1953年号のフランク・ケリー・フリースのカバーイラストの展開だった。ケリー・フリースに連絡を取り、クイーン・ロボットが誕生した。

 "Jazz" クイーンの7枚目のアルバムである。初のイギリス国外でのレコーディングとなったこのアルバムは、'78年11月にリリースされた。このアルバムからの最初のシングルは、ダブルAサイドの "Bicycle Race/Fat Bottomed Girls "で、瞬く間に世界中のチャートを席巻した。アルバムのパッケージには有名な "Bicycle Race "のポスター封入されており、特にアメリカでは物議を醸した。彼らの癇に触れないように、アルバムはポスター付きとポスターなしの2種類が発売された。どちらかを選べるとなると、大衆はポスター付きのアルバムを大量に購入した。

 クイーンは全ての記録を更新し続ける。1978年はブリュッセルのフォレスト・ナショナルで3回のコンサートを行った最初のバンドとなった。彼らは1979年にこの記録をさらに強化する。これは他のグループにはなし得ない事だ。2年連続でオランダのヒット・クラントのベストグループ賞を受賞。”Jazz" の "Bicycle Race" は、同誌の読者から年間トップシングルに選ばれた。

 1979年の幕開けは "Don't Stop Me Now "がイギリスと世界のチャートで上位にランクインした。また、世間の圧力により、ライブ・アルバムもリリースされた。"Queen Live Killers "は、クイーンとのコンサートでのドラマとスリルを追体験したいというファンの要求に応えたもので、ありがたいことに、それはまだその特権を持っている人たちと共有することができる。このアルバムは正当に世界中のチャートを上昇させた。

 

 この年の大きな出来事の1つは、クイーンの日本への凱旋帰国だ。大騒ぎの歓迎から3年が経過していたが、日本のファンが膨れ上がったこと以外は何も変わっていなかった。世界的に有名な東京の武道館での5公演ソールドアウトを含む記録的なツアーを経て、ミュージックライフ誌のトップグループ賞、トップアルバム賞、トップシングル賞など、主要な賞を全て受賞。また、今回もメンバー全員がそれぞれの部門でトップを獲得した。

 十分な休息を得た後、バンドは1ヶ月間スタジオに入り数曲をレコーディングした。最初の曲 "Crazy Little Thing Called Love "は、クイーン史上最大のヒットを記録した。このシングルはアメリカ、メキシコ、カナダ、オーストラリア、オランダ、ベルギーで1位を獲得し、現在も多くの国のチャートに登っている。現在、オーストラリアでは "Crazy Little Thing"が7週連続で首位を獲得している。続く"Save Me"は、これまでイギリスとオランダのみで発売されていたが、すでに両国のチャートで上位にランクインしている。

 1979年末、"Crazy Little Thing "がイギリスのチャートで上位にランクインしていた頃、クイーンはイギリス・ツアーに着手した。アイルランドでのツアーは初めてであり(ダニー・ボーイが熱狂的な拍手喝采の中で演奏された間に)イギリスのすべての主要都市で行われ、いくつかの珍しい会場での公演が行われることが決定した。多くの会場では、ホールに収まるように照明や音響設備を変更しなければならなかった。大勢がバンドの演奏を聴く機会を確保するために、アレクサンドラパレスのようないくつかの大きな会場が含まれていた。この実験的公演は、観客とメディアの両方に絶賛され、多くのグループが今、同じコースを周っていることは興味深い。


 世界のロックグループの第一線で活躍するクイーンが再び登場し、新しい年が始まった。多忙な1年になりそうだ。バンドは現在、次のアルバムのレコーディングを終えた。年末にはリリース予定の数百万ドルを投じた"Flash Gordon"のサウンドトラックの作曲にも力を入れている。また、北米、南米、ヨーロッパでのツアーも予定されており、今年は休む暇がないだろう。

 キャリア当初からそうであったように、いまだに解散の噂が絶えない。しかしクイーンは今、これまで以上に硬く結束している。バンドは成功のピークにあるが、彼らはそれに満足することはないだろうし、常に努力を惜しまない。彼らの音楽は常に革新的で多様性に富んでいるので、陳腐になることは消してない。4人それぞれが長年に渡って個々の才能を開花させてきており、それに終わりがあるかなど見当もつかない。

この4人が一緒になることで、強力な存在となりながらも、ステージやレコードの上では別々の個性を発揮し、その可能性は無限大に広がっていくのである。ただ1つ確かなことは、彼らのやることは決して陳腐で退屈なものにはなり得ないということだ。

そして、彼らがはまるような型はない。

 

この時期のフレディの表情の険しさ。
何を思い、どのような心持でツアーに臨んでいたのだろう。

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