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  • 執筆者の写真QUEEN NOTE

ジョン・ハリスの献身。

2024.3.20 追記



Jonathan"John"Harris


5人目のクイーン。

数多の5人目のクイーンの中から今回は盟友ジョン・ハリスさんに想いを馳せます。


みなさんご存知の『I'm In Love With My Car』アルバム『Jazz』を捧げられた男、ジョン・ハリス。


私たちの耳に届く初期のスタジオ音源のセットアップ、ライブ音源のミキシング。サウンドエンジニアとしてだけではない、クイーンとハリスの繋がり。その献身をまとめたいと思います。



1960年台後半、インペリアルカレッジの学生だったブライアンは、同じ大学で数学を学ぶハリスと出会う。真面目な学生ブライアンと、その真逆を行くハリスは、対照的な性格ながらウマがあい、自然と仲が良くなった。彼らには共通する情熱、音楽があった。


ハリスは1,2年で大学をドロップアウトするが、ブライアンやその仲間たちとの友情は変わらず、貧乏学生達はバーンズやフェリーロードなど点々と雑居暮らしをする。そんな生活の中でハリスはギグとなれば、ポンコツのバンを運転し、機材を運び、自然とSMILEの善意のローディーとなった。


運命が重なり合う、ほんの少し前の1970年2月。フレディは雑誌広告で見たSour Milk Seaというバンドのオーディションに出ることとなった。シャイなシンガーは、雑居仲間のロジャーとハリスにオーディションへの同行を懇願。フレディ青年(23)はブロンドの2人の従者と共に、派手な出立ちでオーディション会場に登場。見事スタアを演じ、狙った席を勝ち取った。友人に見守られる安心感、きっと彼にはそれが必要だったのだろう。


Sour Milk Seaの解散、Smileの解散、Queenの結成、ジョン・ディーコンとの出会い、ジョン・ハリスは全てを傍で見てきた。共に回った公演は全て録音し、移動の道中に聞き込み、次の公演に生かした。


クイーン2番目のベーシスト、バリー・ミッチェルは書籍『The Early Years』のなかでこう回想している。


ジョン(ハリス)は、いつもリハーサルに来ていた。彼はバンドの機材の持ち出しを手伝い、バンドの面倒を見ていた。ミキシングデスクなんてなかったから(当時)、音響に関してできることは限られていたけれどね。フレディが不機嫌な時にはなだめ役をかってでてくれた。バンドは彼を慕い、彼は時々バンドにハッパをかけて良い演奏をさせようとしていた。バンドは強情だったから大変だったろうね。

Mark Hodkinson『Queen: The Early Years』2009,Omnibus Press


クイーンが遂にメジャー契約を結ぶこととなる1972年。バンドが最後まで契約でこだわったことの1つがハリスの雇用を契約に含めることだった。トライデント側のジョン・アンソニーは、クイーン側の主張を退ける。


「むりったらむりなんだ、彼に支払いたいのなら、自分で雇え。」


この言葉は、奇しくもトライデントとの契約を破棄した後、自前でオフィスを立ち上げ、クルーの直接雇用という形で回収されることとなる。


貧乏学生時代から、売れないミュージシャン時代、契約、ブレイク、5.6年のうちに彼らを取り巻く環境は劇的に変わった。変わらなかったのは友情と献身。1977年8月、ミュージックライフの増刊号にハリスの手記が掲載される。一部抜粋して紹介する。


ステージは、それだけ神経を使うし、コンサート・ ツアーともなれば長い間旅から旅の生活になり、ホテルと飛行場の往復ばかりの毎日が続く。何回か、こんな生活がいやになった時がある。メンバーもそう思ったことが何回かはあったにちがいない。しかし、 それでもこの過酷な世界に生きているのは何ものにもかえがたい喜びがあるからである。僕は今でもよく覚えている。ラジオから初めてクイーンのレコードが流れてきた日のことを…。それは「輝ける7つの海」、イギリスでクイーンが初めて発表したヒット・シングルだった。皆で肩をたたき合いハネまわって大踊ぎをしたものだ。
また、人気TV番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」に初めてクイーンが出演した日も印象的だった。そして、去年初めて日本で演奏した日のこと…。初日の武道館でのコンサートには、ー万人以上の観客が集まった。それまでイギリスではどんなに集まってもせいぜい4干人位の観客を前にしか演奏したことしかない彼らが、東京でー万人を前に演奏するのだ。それは、興奮と感動を覚えずにはいられない出来事であった。
僕はいつまでクイーンと共に仕事をするかわからない。歳をとればツアーに出るのが、いやになるかもしれないし、その時はスタジオ用のエンジニアになるかも知れない。しかし、クイーンがある限り、僕は彼らと共に行動するだろう。それほど、彼らは僕にとって良い友人達であり、魅力的なミュージシャン達なのだ。

『華麗なるクイーン』1977,シンコーミュージック




ハリスの手記がMLに掲載された半年後、ハリスはNOTWツアー最終公演で倒れた。



よくないこともあった、サウンドマンのジョン・ハリスがカリフォルニアで倒れた。
彼はよくなってきているから、またすぐにミキシングデスクに戻って来れるはずだ。

by Freddie Mercury『Queen Magazine』Spring 1978 issue



上記はフレディが1978年春号のファンクラブマガジンに綴った言葉である。麻痺の症状のあるハリスはファーストクラスを何席か確保し、イギリスに戻った。当時ハリスの病は原因不明とされ、およそ1年入院。(※後年ギランバレー症候群と診断される)


フレディの祈りを込めた言葉、捧げられたアルバム。ハリスは79年、杖をついてCrazy Tourに復帰する。が、共にツアーを回ってきたピーター・ヒンスからみても、ハリスの体調は充分ではなく、ワールドツアーについていけるようには映らなかった。どんなに悔しく、辛かっただろう。


バンドはハリスにマウンテンスタジオのエンジニアの職を申し入れたが、ハリスはそれを辞し、クイーンを去った。


ピーター・ヒンスが最後にハリスを見かけたのはマジックツアーの楽屋だったという。バンドとハリス、お互いに懐かしく切ない再会だったに違いない。


親しい側近であればあるほど、一緒の写真が少ないと感じる。

光の当たる4人、必死に支えた仲間。

クイーンの音楽には、さまざまな人の想いや夢が宿っている。


ハリスの録音は、今もクイーンの『保管庫』で眠っている。



 

2024.3.20 追記




2024年度ファンクラブコンベンションにジョン・ハリス氏が登壇予定。

本当に楽しみです。☺️


 

参考文献 Mark Hodkinson『Queen: The Early Years』2009,Omnibus Press


Rupert White『Queen in Cornwall』2012,Antenna


Phil Chapman『The Dead Straight Guide to Queen』2020,Red Planet


Mark Blake『Is This the Real Life?: The Untold Story of Queen』2011,Da Capo Press


『華麗なるクイーン』1978,シンコーミュージック


『Queen Magazine』Spring 1978 issue

 

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