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執筆者の写真QUEEN NOTE

レイノルド・マック と クイーン



"Gonna use my stack It's gotta be Mack"


"Dragon Attack"の一節。

楽曲に永遠に刻まれたMackの名。


今回はReinhold Mack(以下、マック)についてまとめます。エンジニアとなった経緯、クイーンとの出会いを、さまざまな記述をもとに紐解いていきたいと思います。


レコーディングのテクニカルな面は基礎知識がないが故にまとめることができませんでした。記事最下部の参考サイトには沢山の情報があるのでテクニカルについては直接そちらをご覧ください。またフレディを絡めた記事が多い為、フレディが軸のまとめとなります。


 

青年マック



マックは、1949年ドイツのハイデンハイムに生まれた。2021年現在72歳。フレディの3つ年下にあたる。両親は楽器店を営んでおり、マックはクラシックピアノを9年、クラリネット、スパニッシュギター、キーボードなど様々な楽器や音楽に幼少から触れ育った。


学校生活はさほど楽しくなく、一方バンド活動("Rockers")では地元紙に取り上げられ収益も上げ、学生でありがならメルセデス300SCを所有していた。だが、進学しないとなると当時のドイツは兵役があり、楽器を置き、ゼッケンとライフルを手にすることとなった。


兵役から戻ると、定職につくことを望んでいたマックの母は彼の楽器を全て売却してしまっていた。マックはこれを挑戦と受け止め、当時ステディな関係だったイングリットと、彼女の大学に程近いミュンヘンに共に移り住む。ミュージシャン志望を封印し、音楽関係の仕事に就くことを決意した彼は電話帳でAの行から全てのレコーディングスタジオに電話をかけ、ついにUの行、ユニオンスタジオに勤め口を見出した。たっぷり5ヶ月の忍耐の勝利である。


ユニオンスタジオでは与えられた機会を最大限に活かし、見て学び貪欲に技を吸収していった。配線からセットアップまでなんでもこなし、エレベーターミュージックを12トラックで録音しミックスするセッションでは完璧に仕事を遂行できる男と認められ、必要とされる人材としての立場を築いていった。


転機は突然訪れた。Amon Düülとの仕事の際、ユニオンスタジオを見学に来ていたディスコの父にしてミュージックランドスタジオ創設者となるジョルジオ・モロダーに見出されたのだ。モロダーはマックのシャッフルを気に入り「マッキー、私の元で働いてくれたら、ここの3倍を支払うよ。」と申し出た。妻のイングリットは当時妊娠しており、モロダーからの「世界最高のスタジオを作ろう」というラブコールを断る理由はなかった。


ここからの話は広く周知されているが、マックはミュージックランドスタジオの専属サウンドエンジニアとなり、彼の言葉を借りれば『信じられないほどの幸運』からT-Rex, Deep Purple, The Rolling StonesそしてELOらと仕事をし、エンジニアとして頭角を表していく。ELOとの7枚目のアルバム『Out Of The Blue』を録り終えると、バンドからの誘いを受け、約9ヶ月のワールドツアーに同行した。これを機にマックは独立した。



 

クイーンとの出会い



1979年初夏、マックはロサンゼルスでジョルジオ・モロダーに会い、特別なオファーを耳にする。「マッキー、ミュンヘンにいたほうがいい。(ミュージックランドスタジオに)クイーンがやってくる、君の出番だ。」確認するも予約の情報はなく、半信半疑ながらマックは私費でミュンヘンに戻り、クイーンとの逢瀬に備えた。『適切な時期に、適切な場所にいること』マックもフレディと同じ信念を持っていた。


余談だが、この『クイーンとの仕事』には怪情報がある。モロダーにクイーンinミュンヘンの情報を提供したのは、ジム・ビーチであったらしい。2000年に行われたマックのインタビューによると、1979年5月の時点でアルバム『The Game』の構想があり正確にスケジューリングされていたそうだ。不思議なことに、このインタビュー以降、マックはそのことを一切口にしなくなる。黒幕が仕事をしたようだ。


話を1979年初夏に戻そう。マックがミュンヘンに戻り、アラベラハウスの地下にあるスタジオへの階段を降ると、ドラムキット、ギター、アンプなどの機材が天井まで山と積まれマックを出迎えた。「クイーンは日本での公演を終わらせたものの税金の関係であと2週間はイギリスに戻れない、ここに機材を保管させて欲しい。」そう告げたのはラッティだった。


せっかくの楽器、何かが起こると仮定して準備せねばと、マックはドラム、ギター、ベース、マイク、それからピアノをセットアップする。ちょうど終わったタイミングでドアが開き、フレディが入ってきた。


どうやらこれが初対面の現場だ。フレディはマックに「何しているの?」と問いかけ、マックは伝え聞いたクイーンとの仕事の機会について話した。が、フレディは「とにかく飲みに行こうよ!いいビアガーデンがあるって聞いているよ!」とマックを誘う。アロハシャツに短パン、バレエシューズという実に軽装なフレディは、マックに腕を絡ませて人混みをすり抜けビアガーデンに向かった。その後は何本ものインタビュー、複数視点の証言があるが故に辻褄が合わない"Crazy Little Thing Called Love"のセッションへと流れていくのである。


飲みに行ったチャイニーズタワーのビアガーデン


 

クイーンとの仕事



ミュンヘンにあるミュージックランドスタジオは、イギリスのミュージシャンたちにとって非常に都合のいいスタジオだった。1979年マーガレット・サッチャーが政権をとると、イギリスのミュージシャン達は税務上の都合から自国の素晴らしいレコーディングスタジオでの録音を諦め、国外に新天地を求めるようになった。ミュージックランドスタジオは巨大ビル、アラベラハウス内にあり、同じビルの中にはアパート、ホテルがあり、周辺にはクラブやパブなどの福利厚生(!)もバッチリ揃っていた。


出会った当時のクイーンの仕事ぶりを回想するマックのインタビューでは「独自の手順に固執していた」「2.3世代古い手順となっていた」「僕の強みは、仕事が早いことだ。そして、クイーンの仕事はとても遅い。それを知ったのは後になってからだけど、僕の計画は、彼らの仕事のやり方を変えることだった。」と述べている。


クイーンは『A Day At The Races』でセルフプロデュースに挑み、『News Of The World』ではマイク・ストーンに補佐を頼みつつ自分たちの手で音を追求し、『Jazz』ではロイ・トーマス・ベイカーに再びプロデュースを頼んだという経緯がある。人任せにしたくはないがレコーディングの全てを自前で賄えなかったジレンマが読み取れる。レコーディング技術や機材が猛烈な勢いで進化していた時期故に、苦悩している間にも時は流れてしまっていた。


"Gonna use my stack. It's gotta be Mack"

4人のエゴのバランスをとりながら、新しい卓で新しいレコーディング手法をクイーンに紹介したのがマックだった。


室内残響を含むライブな音をマイクで拾い、また『ドロップイン』という手法を用い、レコーディング時間を大幅に短縮させたと、後にブライアンはマックの仕事ぶりを回想している。


マックのミックス、ミュージックランドスタジオの音、ミュンヘンの雰囲気。1980年台に入ってクイーンの音楽にこれだけ大きな改革があったのも頷ける。



 

フレディとの友情



1982年5月21日、大変な難産となったアルバム『Hot Space』がリリースされた。


マックの妻イングリットは「アルバムを仕上げるより、子どもを妊娠出産する方が簡単そうね。」と漏らし、これによりイングリットの出産がアルバム完成より早かった時にはバンドが子どもの名付け親となるという賭けをして楽しんだ。


実際アルバムはJohn Frederick Mack誕生から4週間遅れで仕上り、バンドはマックの子の誕生を喜び、子どもに名前を授け、フレディに至っては花屋の花を買い占めプレゼントした。


このようにして、家族ぐるみの暖かな交流がはじまった。フレディはマックの3人の子を愛し、手紙を送り、電話をし、誕生日パーティーに参加し、プレゼントをおくり、宿題を手伝い、プールで泳ぎ、卓球した。


僕の子供達にはよく自分の子供時代の話をしていたな。とても子供好きだったんだ。子供が歩き始めて喋り出して、少しでも反応するようになった途端、フレディーは仲良くなってしまうんだ。

リック・スカイ『フレディー・マーキュリー華やかな孤独:改訂版』p.86 

彼にとって家庭を持ち、ノーマルな人生を送ることは大事だったんだ。僕は5年ほど前に会計士に酷く騙されたことがあって、膨大な滞納税を支払う羽目になった。ある日フレディーとその問題について話していた時、もうウンザリだって漏らしたら、こんなことを言った。"バカもの。ただの金じゃないか。何でそんなことで心配するんだい?君には幸せがあるというのに。素晴らしい家庭と子供達がいるじゃないか。欲しいものはすべて手にしたじゃないか。僕が決して手に入れることのないものすべてを"って。その時僕は気付いたよ。彼は僕の家を観察していたんだ。目で耳で家庭生活とは何か、幸せとは何か、家庭が果たして自分も幸せにできるものか、考えていたんだ。確かに僕の家族は仲良いからね。

リック・スカイ『フレディー・マーキュリー華やかな孤独:改訂版』pp.85-86 


ある夜、フレディはマック夫婦とココアを手にソファで映画を見たそうだ。マックは回想する。「すごく嬉しかったのは『ああ、本当の家族みたいだね』と彼が言ったことさ。」



 

時は流れて



フレディとマックはソファに腰掛けて映画『アマデウス』を8回鑑賞したという。フレディはアマデウスの最後の場面、モーツァルトが墓に放られ、石灰をかけられるシーンを見てマックに『みてよ!僕もこうなるんだ、僕の音楽が台無しにされないように見張っててよね。』と言ったそうだ。


フレディがミュンヘンを去ると告げた時、マックは驚かなかったという。その後も連絡を取り合う関係が続いたが、アルバム『Innuendo』製作時、アメリカに渡っていたマックはフレディに電話をする。フレディは『まったく君はウマく逃げたよな。もう1年も経つのに、何もできちゃいないよ。ちょっと長くなりそうだ。』※1と冗談めかして語ったそうだ。


時は流れ、1972年に起こされたミュージックランドスタジオは、近くに完成したU4ルートの地下鉄の騒音に悩まされ、録音レベルの維持ができなくなり1990年代初頭に閉鎖された。アラベラハウスの地下に降りるあの階段は、ひっそりと静まり返る。


銀髪になったマックは20年以上続いたカルフォルニア暮らしから、今はミュンヘンに戻ってきている。


2019年のインタビューで「彼が恋しいか」との問いに、マックはこう答えている。


「もちろんだよ。僕らは彼のもう1つの家族だったという事を忘れてはいけない。」※2


 

参考文献


リック・スカイ『フレディー・マーキュリー華やかな孤独:改訂版』1994,2001 ※1


『1961 Magazine』May 6, 2019  issue"THE MAN SIMPLY KNOWN AS MACK" ※2 


Nicola Bardola『Mercury in München』2021


ピーター・ヒンス『クイーンの真実』2016


 

参考サイト


Produzent Mack über seine Zeit mit Queen, Led Zeppelin, BAP und Co.


Stories from a Pro: Reinhold Mack


He Was Music: Reinhold Mack On Working With Freddie Mercury


Reinhold Mack: ELO, Queen, Black Sabbath & T. Rex


Freddie Mercury Went to a Kids' Party in a Queen Video Costume to Fulfill a Boy's Birthday Wish


Giorgio Moroder interview by SVEN SCHUMANN


Giorgio Moroder Laid The Blueprint for EDM at Musicland Studios in Munich


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