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執筆者の写真QUEEN NOTE

デヴィット・リチャーズとクイーン


Image: Peter Hince (Freddie Mercury in Mountain Studios)


クイーンのアルバム『The Miracle』が、ボックスセットとして発売されることとなった。1989年に10曲を収録してリリースされたアルバムだが、その制作場面では膨大なデモ、未完成曲、長尺バージョンが存在した。当時、これ以上ないほど結束を深めたバンドのライブな音を生け捕ったのが、Co-Producerとしてクレジットされているデヴィット・リチャーズだ。


リチャーズは2013年に57歳の若さで鬼籍の人となった。今回は彼の残した音、言葉を手がかりに、その軌跡をたどっていく。


 

デヴィット少年


David Richards(以下カタカナ表記) は1956年、ロンドンの音楽一家に生まれた。3歳からピアノを習い、7歳の時に父が仕事をする音楽スタジオに足を踏み入れた。


“There was a huge sound, all these knobs and guys with smart clothes, very cool, behind the console. I realised that this was what I wanted to do,” 
ー Pierre Perrone, Independent, Thursday 20 March 2014

「大きな音、たくさんのツマミ、そしてコンソールの後ろにはスマートな服を着た、すごくクールな人たちがいた。これこそが自分のやりたいことなんだって、気づいたんだ。」

デヴィッド少年は10代の頃、アイススケートの選手としてコンペ優勝など活躍するも、幼き日の憧れを忘れることなく、17歳で名門チャペル・スタジオに職を得た。


チャペル・スタジオではチーフ・エンジニアであるジョン・ティンパリーに師事し、シャーリー・バッシーやビング・クロスビーなど魅力的な現場に携わり、オーケストラやヴォーカルのマイクセッティングなどを学んだ。


デヴィットがチャペルに職を得て半年後。師であるジョン・ティンパリーのもとに、あるスタジオからのオファーが舞い込む。マウンテン・スタジオだ。




マウンテン・スタジオ


1975年スイス、モントルー、レマン湖のほとり『カジノ・バリエール・ドゥ・モントルー』(以下:モントルー・カジノ)は再建の日を迎えようとしていた。モントルー・ジャズ・フェスティバルの会場としても名高いモントルー・カジノは、1971年、フランク・ザッパの公演中に火災が発生し全焼した。その顛末は、ディープ・パープルの楽曲 "Smoke On The Water" にも歌われている。


火災から4年を経て再建されるモントルー・カジノは、カジノとコンサートホールだけではなく、ジャズ・フェスティバルを録音する為のスタジオが完備された。スタジオ創設のエンジニアを探す中で、ジョン・ティンパリーに白羽の矢が立つ。奇しくもティンパリーにはチャペル・スタジオを火災から再建させた経験があった。こうして若きデビッドは、師に同行する形でマウンテン・スタジオへ移籍した。


1975年7月3日に開業したマウンテン・スタジオは、もとはカジノの金庫になる部分に作られた為、少々変わった作りとなっている。図面はアメリカのスタジオデザイナーであるトム・ヒドレーにより引かれた。スタジオはコントロールルーム、スモールスタジオ、ラージスタジオの3部屋から構成され、コントロールルームは6.5m x 5.0mとタイトな作りで、チャペルと同じNeveのコンソールが配置、大小のスタジオとはビデオとオーディオケーブルで連結されていた。コントロールルームを1階上がったスモールスタジオは14m x 12m。ラージスタジオと称されていた部屋は、実際にはカジノのコンサートホールであり、広い空間でライブな音を出すことができた。


マウンテン・スタジオでのデヴィットの最初の仕事はローリング・ストーンズのアルバム『Black And Blue』の録音だった。このアルバムで、デヴィットはエンジニアのキース・ハーウッドの元で研鑽を積む。チャペルのクラシカルな雰囲気からロックの洗礼を受けたデヴィッドは、のちに「夜10時からのストーンズの仕事は完全にカルチャーショックだった。」と述べている。ティンパリーが1977年にマウンテン・スタジオを去ると、デヴィットは21歳の若さでスタジオ責任者に就任した。


wikimedia Mountain-studios



買収


"Bohemian Rhapsody" のメガヒット以降、クイーンは重税から逃れる手段を講じなければならなくなった。さまざまなインタビューでイギリスへの思いや、税金逃れの出国を潔しとしない旨を語ってきたが、思いだけでは問題は解決できず、アルバム『Jazz』はイギリスを離れて録音されることとなった。バンドは1978年7月、マウンテン・スタジオの扉を叩く。


デヴィットとクイーンの初対面は軽く挨拶を交わす程度であったという。


"They were using Roy Thomas Baker to produce and he had his own team, so I took a holiday - but they liked the studio so much that when they heard it was up for sale they bought it, and we got to know each other better after that."
ー Sound On Sound - Aug 1989, pp.86-87

「彼らはロイ・トーマス・ベイカーをプロデューサーに起用して、自分達のチームを持っていた。だから僕は休暇を取ったんだ。彼らはスタジオをとても気に入って、売りに出されたと聞くと買い取った。そうやって、僕らは知り合ったんだ。」

バンドのマウンテン・スタジオの気に入りっぷりは、ラージスタジオでくつろぐ4人が映し出されたアルバム『Jazz』のスリーブからも窺い知れる。このころバンドの会計士は所得に応じた課税から4人の解放すべく画策し『大きな買い物』で所得を減らすことを提案していた。そこでマウンテン・スタジオの買収計画が持ち上がり、マネージャーのジム・ビーチがスタジオのオーナーに掛け合い、1979年7月15日に買収は締結した。


スタジオにいながら、自らを含め、まるごとごっそり買われてしまったデヴィッドの狼狽っぷりは、いかばかりであっただろう。デヴィットはこれからマウンテン・スタジオをどうするつもりなのかとフレディ・マーキュリーに尋ねると「湖にでも放り込むか、ねえ、どう思う?」と、ますます不安にさせられる返答を得たという。




交錯する現場


巨大な人生を生きるクイーンは忙しく世界を飛び回っていた。1979年夏、フレディはマウンテン買収と時を同じくして、ミュンヘンの街とレイノルド・マックのミックスに染められた。クイーンにマックの時代が到来する。


マウンテン・スタジオはオーナー不在の日も多かったが、1979年には『Live Killers』のミックスがなされ、1980年にはロジャーがソロアルバム『Fun In Space』をレコーディングした。『Fun In Space』でデヴィットはエンジニアとしてだけでなく"Approx, 50% of Keyboards : David Richards"(キーボードの約50% : デヴィッド・リチャーズ)とクレジットされる活躍を見せる。


マウンテン・スタジオはクイーン以外にも、同じくイギリスからイヤーアウトした錚々たるミュージシャンに愛顧されていたが、その中でもデヴィット・ボウイとの関わりは深い。


1981年夏、クイーンはアルバム『Hot Space』制作のためマウンテン・スタジオに滞在していた。この情報を、デヴィッド・リチャーズが電話でボウイに伝えると、クイーンとボウイのスタジオでの逢瀬が実現した。"Under Pressure" での創作魂の衝突は、セッションだけにとどまらず、アレンジにまで及んだ。クイーンが先にスタジオを出たある夜、ボウイはデヴィット・リチャーズに「僕が録音するから君がピアノを弾いてくれ」と頼んだという。このシチュエーションにリチャーズは半ばパニックに陥ったというが、あの印象的な2声のピアノサウンドは夜更けの魔法の如く紡がれ、楽曲を縁取ることになった。「これこそが欲しかった音だ。」とボウイは頷いたという。




2人のプロデューサー


1986年に発売された、クイーンのアルバム『A Kind of Magic』は、オリジナルアルバムとして、サウンドトラックとして、さらには2人のプロデューサーの間に揺れた1枚となった。このアルバムは、ミュンヘンのマック、フレディ、ジョン組と、モントルーのリチャーズ、ブライアン、ロジャー組にチームが分かれて制作されたという。


奇妙なことに、あのアルバムでは、半分は私、半分はマックがプロデュースしている。その理由は、フレディがとても義理堅いから。彼はいつも他の人を守っていたんだ。サウンドを変えるためにはプロデューサーを変えたいというのはわかっていたんだが、簡単に今までのプロデューサーに「さよなら」を言えなくて、ああいう形になったんだ。
ー Rock Jet編『クイーン・ファイル』p.136

それぞれの見方、感じ方があったとは思うが、デヴィットは上記のように捉えていた。


“No Group can afford to get in a rut; they must be ready to change with or even ahead of the times if they are to remain successful.”
ー Queen 1980 Concert Tour Program

「マンネリに陥るわけにはいかない。成功し続けるためには時代に合わせるか、そうでなければ時代を先取りして変化をしていかなければならない。」

こちらはGAME時のフレディの言葉だ。クイーンはまた痛みを伴う変化の時期を迎えようとしていた。妥協の許されない音作りと、替えの効かない友人との間で、バンドは難しい選択を迫られていた。




ミラクル


1987年12月3日、フレディがアルバム『Barcelona』を録音中のタウンハウス・スタジオに、クイーンは集結し、バンドの再起動の話はまとまった。そして、あの有名な取り決めがなされる。


作曲者をひとりにしなくなったのは、フレディのアイディアでそのほうが、ずっとフェアだからっていうんだ。(略)彼は私に証人になってほしいって言ったんだよ。スタジオにいた時だったから、「ほら、デヴィット、聞いてたよね」ってね。
ー Rock Jet編『クイーン・ファイル』pp.138-139

1978年の出会いからおよそ10年が経ち、22歳だったデヴィットは32歳となった。一方クイーンは円熟期を迎えたものの、予期しない問題に直面していた、フレディの健康問題だ。誰もが違和感を感じながらも、口には出せない重大事項は、創作に影を落とすことはなく、むしろ物事を力強く前に押し進める起爆剤となった。


デヴィットはクイーンのライブバンドとしての資質を最大限に引き出すため、ジャムから発展させる形で曲を仕上げるよう仕向けた。


"Well, they like to take things to the limit, and I know how to get the effects they want. Freddie (Mercury) is very good at explaining what sort of sounds they're aiming for, but they often decide to change a song structure suddenly. On this album we were using two Sony 3324 digital recorders slaved together, so if you need to make a change you have to edit/copy all the masters and then transfer all the slaves as well. I don't like to tell them that something can't be done, although normally on a job like that they'd go off and leave me to it!"
ー Sound On Sound - Aug 1989, pp.86-87

彼らは物事を極限まで突き詰めるのが好きで、僕は彼らが望むエフェクトを知っている。 フレディ(・マーキュリー) は、自分たちの目指すサウンドを説明するのがとても上手いんだけど、曲の構成を急に変えることもよくある。 このアルバムでは、2 台の Sony 3324 デジタル レコーダーをスレーブに使っていたんだけど、変更が必要な時には、すべてのマスターを編集/コピーして、全部転送しなおさなければならない。 僕は彼らに『できません』と言いたくないし、そういう局面では、大抵彼らは席を外して、僕に任せてくれたんだ。」

この頃のレコーディングは、アナログからデジタルへの移行期にあり、デヴィットは旧来のマスターに音を一本化させていく手法から、個々の音像を『スレーブ』という概念で管理し同期させる方法をとった。また、ドラムやベースをサンプリングし次々とループを作成していくさまをみたブライアン・メイは「彼はサウンドをブレンドする生来の才能を持っていた。まるでスタジオが彼の体の延長であるかのようだった。」と回想している。


こうして仕上がったアルバムは、勢いと結束の強さを感じさせるものであり、かつての4つの頭のゴルゴンは、みごと一体の魔物となった。




不死鳥


アルバム『The Miracle』以降のクイーンが過ごした日々については様々に語られている。時は移ろい、マウンテン・スタジオは1993年に遂にデヴィットの手に渡った。マーキュリー没後、残された音の破片は、ひとつひとつ拾い集められ、1995年にアルバム『Made In Heaven』に昇華された。その工程をブライアン・メイはのちに懐かしく回想している。


David was our lynch-pin during all those final days when we knew Freddie was near the end. When, months later, we got close to assembling the final versions of all those precious fragments into the tracks which made up the ‘Made in Heaven’ album, most of which we'd worked in Roger's and my own studios in England, we once again returned to Montreux and David.  Together we tied up every loose end, polished and fine-tuned the mixes.  
One of my favourite moments with him was the creation of "Track 13" for that album. David and I lit up joss sticks and candles in the control room, powered up every machine in the building, and sat 'painting pictures’ with synthesisers and samplers against a slowly changing backdrop of drones - for the whole night - something like 8 hours, by the time it had evolved.  Roger wafted in, enjoyed the vibe, and played a 'solo' half way through, and wafted out.  Then somehow we got to a place where it seemed like the music had taken us all the way through some kind of worm-hole and out the other side. In the refreshing emergence we thought we could hear Freddie laughing 
ー BrianMay.com  Fri 20 Dec 13, “R.I.P. DAVID RICHARDS”

フレディに終わりが近づいていることが見えていた最後の日々、デヴィッドは僕たちの鎹(かすがい)だった。数か月後、これらの貴重なかけらの最終バージョンをアルバム『Made in Heaven』を構成するトラックに組みあげようとしていた。ほとんどはイギリスのロジャーと僕のスタジオでの作業だったけれど、僕らは再びモントルーのデヴィッドの元に戻った。 一緒に残されたすべての部分をまとめ、ミックスを磨き、微調整した。
彼との思い出のひとつは、あのアルバムの "Track 13" を作成したことだ。 デビッドと僕は、コントロールルームでお線香とろうそくに火を灯し、建物内のすべてのマシンの電源を入れ、ゆっくりと変化していく光景を、シンセサイザーとサンプラーを使って『描いた』。一晩、8時間くらいをかけてね。 ロジャーはその雰囲気を楽しみ、途中でソロを演奏していった。 そうするとどういうわけか、音楽が僕たちを、むこう側に連れて行ってくれたような心地よい感覚になった、フレディの笑い声が聞こえたような気がした。

2002年夏、クイーンが愛したレマン湖のほとりに立つマウンテン・スタジオは、カジノの修復工事による騒音を避けるように、車で一時間ほど山寄りに移動したアタランスへ移転をした。


数々の思い出をたたえたモントルー・カジノ内のスタジオは、2013年12月2日にクイーン・スタジオ・エクスペリエンスとして生まれ変わった。


デヴィットは、ブライアンとロジャーと共にオープン式典に臨んだあと、スタジオのゆくすえを見届けたかのように、57歳の若さで亡くなった。


時の流れの中で、失われていくもの、淘汰されていくものは数多ある。レコードやCDは姿を消し、思い出を宿した建物も取り壊されていく。ではモントルーの地から世界に放たれた音楽はどうだろうか。音は川となって、これからも人々の心を満たし続けてゆくだろう。



 

参考文献


ROCK JET編『クイーン・ファイル』シンコー・ミュージック 2002


ジャッキー・ガン,ジム・ジェンキンズ『クイーン 誇り高き闘い』シンコー・ミュージック 2022


ハワード・マッセイ『英国レコーディングスタジオのすべて』DU BOOKS 2017


Benoit Clerc『Queen All The Songs』Black Dog & Leventhal 2020


『Sound On Sound』 Aug 1989 Issue, pp.86-87


 

参考サイト


Queen Online - David Richards RIP


BrianMay.com - R.I.P. DAVID RICHARDS


Queen - The Studio Experience


Mountain Studios(Wayback Machineによる復元)


Reportage – Mountain Studios: il paradiso svizzero dei Queen!


David Richards: Producer, engineer and musician at Montreux's Mountain Studios who worked with Bowie, Queen and Duran Duran


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