トライデントはノーマン・シェフィールドと、弟のバリー・シェフィールドにより立ち上げられた録音スタジオ、映像スタジオ、A&Rマネジメント、コンソール制作などの業務を提供した企業。
クイーンファンとしての目線だと、トライデントは悪徳マネジメントでクイーン怒らせ、名曲『Death On Two Legs』を生むきっかけを与えた企業、というのが第一印象だと思う。
ノーマン・シェフィールドは2014年に鬼籍の人となったが、亡くなる前年に自らのビジネスを1冊の本にまとめた。その名も『Life On Two Legs』。
この本を含む数冊の本から、トライデントとクイーンとの関係を掘ってみる。
旅周りのバンドマン(ドラム担当)だったノーマンは結婚を機に、レコードショップを立ち上げ、さらに機械いじりの得意な弟バリーを雇い入れ、音楽プロモーション会社を設立。楽器などの資材をつなぎあわせ、間に合わせのコントロールルームを作成し、ミュージシャンたちが録音できる形を整えていった。この簡易スタジオは好評を博し、事業拡大を決意。ソーホー地区に地下1階、地上1階の細長い貸物件を見つけ1年をかけて改修。兄弟共に自宅を抵当に入れ、私財を投げ打って新しいスタジオ作りをした。
『この事業を成功させるためには、ふたつ、絶対に欠かせないことがあるというのは、初めからわかっていた。まずは、わたしたち兄弟が一か八か賭けに出て、何か大きなものを作ること。そしてそこをミュージシャンの背中を押し、クリエイティブにさせてやる場にすること、それが必須だった」
出典:『Life on Two Legs』2013
邦訳:『英国レコーディング・スタジオのすべて』2017
このようにして1968年3月にスタートしたスタジオは、自由な雰囲気と当時最新の8トラック録音(※1)(EMIアビイ・ロードスタジオは4トラック)の機器を備え、ビートルズ、エルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイなどに愛顧される。
トライデントは1972年11月1日(※2)、A&R業務3番目のアーティスト契約を、ジョン・アンソニーが見出したクイーンと結ぶ。ノーマンは後に著書で初対面のクイーンの印象を綴る中で、フレディのことを「一瞥して最も手がかかりそうな男」と評している。
クイーンはこの契約により、新人ながら、最新機器を備えたスタジオを、空き時間に限り無制限に使うことができた。ここには録音エンジニアも同席しており、デッカから移籍してきた気鋭のエンジニア、ロイ・トーマス・ベイカーと仕事をする幸運にも恵まれる。
1973年1月にはファーストアルバムの録音が完了。しかしレーベル契約(レコード会社)で難航し完成から発売まで長く待たされた。(ラリールレックスの録音は1972年とあるのでファーストと並行して録られたと思われる)
クイーンはレコーディングとツアーでキャリアを積み上げていく。セカンドはチャート入りし、TOTPにも出演、評価も高まっていく。明確なヴィジョンをもち、ショウの演出、衣装、アルバムのアートワークに至るまで、手ぬかりは一切なく、トライデントはバンドの要請に応え、投資を惜しまなかった。
1974年5月、Mottとまわるアメリカツアー中、ブライアンが肝炎に倒れる。ヘッドライナーはMottではあったがスケジュールに穴が開いた。1974年秋、哀れなブライアンは十二指腸潰瘍で再度入院。9月に予定されていたアメリカツアーもキャンセルとなる。トライデントは、これらの損失も補填した。
そんな中にあってキラークイーンは大ヒット、1974年12月のミュージックウィーク誌には『クイーン ヨーロッパを制覇』という特集記事が組まれる。レコードは売れているし、体を壊すほど働いている。それなのに狭いフラットで週給ぐらし。自負と現実が釣り合わない状況に、クイーンはトライデントへの不満を募らせていく。
1974年12月、バンドが契約した3条件の契約(マネジメント・著作権・レコード制作契約)を解除するための交渉をジム・ビーチが行うこととなる。しかし投資を回収できていないトライデントはしぶり、バンドとトライデントとの関係はますます複雑化していく。
ここで、日本の渡辺プロの社史から一節をお借りする。
『もともと、プロダクションは無名のタレントを世に送り出し、スターにつくりあげるのが自分の責務だと自覚しているが、いっぽう、成功したタレントは自分がスターに生まれついたと考える。表と裏、プロセスと結果の違いである。』
出典:『抱えきれない夢:渡辺プロ・グループ40年史』 PDF版
上記はクイーンについて語られた文章ではないが、土地は違えど同じジレンマを両社は抱えていたようだ。
1975年4月クイーンは渡辺プロの招聘で初来日を果たす。これには1974年5月からおよそ1年をかけてトライデントと渡辺プロの間で、入念な折衝と準備がおこなわれてきた。クイーンが華やかな初来日を過ごす裏側で、ロンドンでは契約解除に向けての話し合いが延々と続く。
1975年8月下旬、遂にクイーンとトライデントの契約は解除される。この解除で違約金10万ポンドと、今後の発売の6作品のロイヤリティの1%をトライデントに支払うこととなった。これによりクイーンは無一文になった。
売れっ子にして、無一文。後のない状態で『A Night At The Opera』は録られた。冒頭の曲に込められた意味を思うと苦しくなる。
契約解除にまつわるノーマンの言葉を書籍より引用する。
「レコード制作、出版権に関しては、マネージメントとは別に私たちが継続していくものと思っていましたが、彼らは『どうせの事ならすべて新しい形でやっていきたい』と希望していたので、同意せざるを得ませんでした。トライデントに対する返済額も相当なものでしたし、その様な状況で彼らが私達から離れて行けば借金も増えてしまう事も指摘しました。しかし、彼らの意思は固かったので、契約解消を行い、私たちに対するレコード制作の義務も、年間アルバムを1枚のペースに落としました。他のレコード会社でしたら、契約を変更せず年間アルバム2枚を要求したと思います。(中略)又、契約解消にかかわる返済に関しても幾らかの猶予期間を与えることができました。出版権に関しても、これから発売される彼らのアルバム6枚分の版権のパーセンテージを確保しています。」
出典:『クイーン:きらめくロックの貴公子たち』1977
クイーン側(ちがうな!フレディだ)の思いは…かの曲が雄弁に語っている。
かの曲を聞いた、ノーマン側はバンドとレーベルを告訴。またも大喧嘩である。最終的には和解するが、この部分は長くなりそうだし、調べるのも大変なので割愛します。
最後にノーマンの言葉を引用し、締めたいと思います。
人間臭くて、汚くて、感情的で…だからこそ『Death On Two Legs』が大好きです。
彼はモンスターだったかもしれない、しかし非凡な才能に恵まれた人だった。
後年、もう1度彼に会うことになる。1986年ネブワーズ公演だ。
まるで過去を忘れ去ったかのように彼は友好的だった。その後、これが彼の最後のライブであり、さらに私が彼と会う最後だったと知った。
抜粋意訳:Norman J Sheffield『Life on Two Legs』2013
※1:録音機器のトラック数については時期の問題もあって諸説あり。
※2:契約は業務により都度結ばれた。最初の契約は1971年、これにより
デビュー前から週給を得る。正式契約は1972年11月1日。
参考文献
Norman J Sheffield『Life on Two Legs』2013 Trident Management Ltd
ジョージ・トレムレット『クイーン:きらめくロックの貴公子たち』1977 新興楽譜出版社
ハワード・マッセイ,ジョージ・マーティン『英国レコーディング・スタジオのすべて』2017 DU BOOKS
高橋健太郎『スタジオの音が聴こえる』2015 DU BOOKS
ジャッキー・ガン,ジム・ジェンキンズ『クイーン:果てしなき伝説』1995 扶桑社
参考サイト
Trident Studios
『抱えきれない夢:渡辺プロ・グループ40年史』 PDF版