長らく絶版だったピーター・フリーストーン氏の著書が『追憶のフレディ・マーキュリー』としてシンコーミュージックから発売されます。
それを祝し(?)Freddie Mercury.com内のフィービーさんの1問1答形式のブログ『ASK PHOEBE』の厳選トピックをまとめてみました。
現時点でブログ記事は96本(レシピ等除く)。翻訳ではなく、あくまで「まとめ」です。♯の横の数字は元記事番号です。ダイジェスト版としてお楽しみください。
目次
作曲
フレディの作曲方法はいつも同じだった。彼はスタジオ以外で曲作りをすることはほとんどなかった。頭の中にアイデアが浮かんでいる状態でスタジオ入りし、ピアノの前に座り、曲に合うコードを試す。基本的なアイデアが固まるとロジャーにドラムトラックを依頼。ロジャーはフレディのピアノ部分にリズムトラックを追加する。曲が形になってくると、ブライアンにギターを追加してもらい、ジョンにベースのリズムをとってもらう。そして彼の頭に浮かんだ言葉をいくつか加える。曲は次第にドラム・フィルやギター・リフ、その他全ての要素で満たされていく。最後にフレディは彼にとって一番の難題である歌詞に辿り着くことになる。彼はそれらを「ちょうどいい」ようにするために何時間も苦労した。 メインとなるものが固まったら、ブライアンがハーモニーを作り、追加していく。最初のミックスが出来上がるまで何時間も集中して作業していた。完成までには何度も議論が交わされ、何度もミックスが重ねられた。
曲はコード進行を中心に作り、(スタジオで)演奏したものはすべて録音されているので、楽譜に書き留める必要なかった。ガーデンロッジで一度だけ、フレディが楽譜に起こしてくれと頼まれた事があった。その後、彼は次のレコーディングセッションまでに紙を始末し、コードを弾くことで、頭にあった音楽を思い出していた。
フレディがコカインをやっていたことは記録に残っているが、彼はコントロールできていたし、決して踊らされることはなかった。お楽しみであり常用はしていない。ある夜、彼はスタジオでコカインを吸って、猛烈に音楽を作った。次の日、スタジオに戻り、自分が録音したものを聞いた彼はこう言った「なんだこのゴミは。」(What is this rubbish?)
フレディがスタジオ以外で曲を書き上げたことはないと思う。実際、ほとんどの曲はスタジオでのセッションから生まれたものなんだ。彼が”Life Is Real“の冒頭を書いた時、私と彼は一緒に飛行機に乗っていて、ガーデンロッジに戻ってからピアノを使ってコードを書き留めていた。それからスタジオで弾き直して思い出したんだ。フレディにとってスタジオは オフィスで仕事をする場所であり、家は自分の時間を過ごす場所だった。
ファンが、いかにバンドやその音楽を拠り所にしていたかを知っていたからこそ、フレディは自らの音楽は使い捨てだと言い、ファンには、それを頼りに人生を歩んで欲しくないと思っていた。
フレディはインタビューで何度も(好きな曲について)聞かれたけれど、自分の言葉が活字になってしまうのを嫌がり、答えるのを避けていた。彼は好きな曲は”SOMEBODY TO LOVE”だと言っていた。答えなかったのは、自作だけを好み、バンドメンバーの曲は好まないと思われたくなかったからだろう。
ライブ
フレディはメンバーとともにショーの1時間ほど前に会場に到着していた。サウンドチェックは数時間前に済ませており、会場レイアウトは把握ずみだ。大抵の会場は、バンドの楽屋とゲスルームがある。バンドルームに入ることが許されるのは、バンドの家族と一部のクルーだけ。フレディは大抵1人でどこか隅っこで、セットを考えながら、いつものホット・レモネードを飲んで過ごしていた。ショーの約30分前には衣装に着替え、メイクをし、ロジャーやサウンドエンジニアのトリップと一緒に発声をする。これでトリップは、その日、誰が高音部を歌うのかを知ることができたんだ。フレディがジャンプして腕を上下させたのは、大抵ステージに向かって歩いているときだけ。アドレナリンの源泉は、イントロと観客の雄叫びだ。これが仕上げとなりフレディの血は脈打った。緊張は方程式に含まれない。
長年にわたり彼のパフォーマンスを見ていると、彼のショーがどんどん力強くなっていったのがわかると思う。彼は会場に合わせてパフォーマンスを構築していた。初期はネイルニス、フォックスファーのジャケット、ボディスーツなど、中性的な雰囲気を完成させた。ショーが大規模になるにつれ、フレディのステージ上のイメージはより大胆になった。彼の衣装は、会場が小さければ濃い色の衣装、会場が大きければ...白!というのが、経験則だった。
フレディはショーの後とても分析的だった。毎晩ステージから楽屋まで歩いているのを見れば、それが良いショーであったかどうかがわかる。彼のヴォーカルパフォーマンスしかり、メンバーのパフォーマンスしかり、ショーに満足していなければ、楽屋は破壊されてしまう事もあった。大抵のミスはライブの雰囲気の中で観客に見落とされたが、フレディ、ブライアン、ロジャー、ジョンはそれぞれで把握していた。フレディの姿勢は「前回のショー程度でしかない」というもので、それが観客の記憶に残るものであるから、クイーンは常にベストを尽くしたいと思っていた。楽屋は各ショーの後、約1時間半、部外者禁止エリアとなり、そのなかで議論はすまされた。
(終演後の)最初の30分は、どのショーでも同じようなものだった。楽屋で、濡れた衣装を脱ぐのを手伝ったり、靴の紐を解いたり、靴や靴下を脱がせたり、基本的に彼らをクールダウンさせるよう努めた。彼らはその日のショーについて、良いところも悪いところも何もかも話し合っていた。この時間の後、家族やゲストはバンドと過ごすことを許される。レコード会社関係者がいる時は、全員で食事に出かけ、それから先は別行動になり、バーやクラブ、ホテルなどに向かうことになる。時には迅速に会場を後にすることもあった。そういう時はバンドメンバーはリムジンに案内され、飛行機に直行、飛行機は次の目的地向かう間、楽屋として使われた。ヘリコプターはネブワースのように、ショーの後に交通渋滞に何時間も巻き込まれる危険性があるときにだけ使われていた。
私生活
紅茶は欠かせないものだった。家にいても、ツアー先でも、それは毎朝絶対だった。フレディのお気に入りは、少しのミルクと砂糖が2さじが入ったアールグレイだ。ホテルなどでアールグレイを飲めない時は、普通のBreakfast blendを飲んだ。自宅では、毎日午前9時に枕元に紅茶が用意された。普段はトーストを何枚かと、自家製のイチゴジャムやマーマレードを添えて食べていた。また時々は母親のレシピのスクランブルエッグとベーコンを欲しがったりもしたが、あまり頻繁ではなかった。
たまにスクランブルエッグとベーコンを食べる事もあったけれど、大抵フレディではなく、猫のお腹に入る事になった。
食後でもフレディがコーヒーを飲むのを見た事がない気がする。 彼は朝も昼も晩も紅茶を飲んでいた。
僕がフレディの元にいた最初の7年、フレディが元気だった頃、彼はスパイシーな料理が好きだった。とはいえ唐辛子辛いものだけでなく、伝統的なイギリス料理も好きだった。僕はジョーが料理を作るのを手伝い、ジョーが病気になったときには僕が料理を引き継いだ。フレディのお気に入りの食事の1つは、母親の料理をヒントにしたチキンダンサク。献立には、彼が子供時代に食べた家庭の味を多く取り入れた。彼は伝統的なサンデーローストも大好きで、毎週取り入れていた。
大体、午前中は紅茶、午後以降は食事と一緒にシャンパンやワイン、夜はウォッカトニックを飲む事が多かった。銘柄についてはガーデンロッジに移ってからはずっと同じものを飲んでいた。紅茶はトワイニングのアールグレイに砂糖とミルク。シャンパンはいつもルイ・ローデラー・クリスタルで、白ワインは彼のお気に入りでスイスから輸入されたサン・サフォリン。実はフレディはワインに詳しく、友人との食事の場面でどれをあわせるかを心得ていた。お気に入りのウォッカはストリチナヤだったが、国によってストリチナヤが手に入らないときは、モスコフスカヤを飲んでいた。ミキサーにはシュウェップスが最適解だった。
フレディは1979年にガーデンロッジを見て恋に落ちた。1980年初頭に購入し、5年の歳月と多額の費用をかけて、元のエドワード朝の素晴らしい姿を取り戻した。応接間のミュージシャンギャラリーと新しいダイニングルームは増築した。1985年には入居の準備が整っていたけれど、フレディとジョー・ファネリはツアーに出ており、まず僕がそこに住むことになった。ツアーが終わると、フレディはスタッフォードテラスから、オスカーとティファニーをガーデンロッジにいる僕の元へ送り込んだ。猫たちがガーデンロッジを気にいると、フレディも引越を決意した。フレディと一緒にジム・ハットンとジョー・ファネリも越してきた。そうして4人の暮らしが始まった。
僕が知り得る範囲で、フレディは10匹の猫の父親だった。メアリーと暮らしていた時にトムとジェリー。スタッフォードテラスではオスカーを手に入れ、彼の生涯唯一の純血種の猫ティファニーはメアリーからプレゼントされた。ジムとの関係の中でデライラ、ゴライアス、ロメオ、リリーを養子に迎えた。ドロシーはミュンヘンにいる間、フレディとジムと一緒にすごした。メアリーはガーデンロッジの6匹の猫を引きついだ。オスカーはフレディが亡くなってすぐに家を去り、ロミオとリリーには、良い家庭が見つかった。残りの3匹はガーデンロッジで終生暮らした。
オスカーは、新参者に飽き飽きしていたんだと思う。彼は最年長の猫で、他の猫が次々に彼のテリトリーに入ってきたんだ。デライラ、ゴライアス、ミコはガーデンロッジに残り、ロミオとリリーは新しい家に行った。10年程前に(※この記事は2014年12月2日)ガーデンロッジを最後に訪れた時、デライラに会った。その時、彼女はとても年老いていて弱々しかったから、まだ生きていたら、びっくりだ。
多くのアートギャラリーのように、フレディのコレクションは半分はしまわれ、半分は壁に飾られていた。彼の好みは数年の間に変わっていった。ダリの版画をシリーズで持っていたし、日本の浮世絵コレクションは、ある時点では英国最大級のものとされていた。ゴヤやシャガールの美しい作品も所有していた。彼の趣味は折衷的で、ジョアン・ミロを愛し、寝室にはルイ・イカールの全シリーズがあった。友人に芸術家がいて、フレディは彼にかなりの数の作品を依頼していた。フレディが最後に愛したのはヴィクトリア朝の油絵の肖像画で、その中にはティソも含まれていた。
プライバシー
ジムの本『フレディ・マーキュリーと私』に関しては、2つの点に留意して欲しい。1つは、本はジムがフレディと過ごした時間について書いたものであり、重要な事実という点だ。もう1つ考慮しなければならないのは、この本はNews of the World紙のジャーナリストによってゴーストライトされたものであるという点だ。僕は本に書かれていることよりも、純粋に個人的な『プライベート』動画がYouTubeに投稿された事に動揺している。
(なぜ本を書き、ひいてはこのブログをやっているかについて)フレディが生きていた時、プライバシーはとても重要なものだったが、それと同時に彼はファンが自分について知りたがっている事も理解していた。晩年の彼との会話を覚えている。彼は没後いろいろ書かれることは承知していた。一番重要なのは真実が語られる事であり、彼の言葉を借りれば「良い事も悪い事も全て。」( it has to be everything, warts and all )ということだ。僕がこのブログを書いているのは、こういう経緯からで、人々を傷つけることなく、できるだけ正直に伝えようとしている。
フレディは友達と楽しくやっている時に「フレディ・マーキュリー」モードになって車を降りて写真やサインの準備をしなければならない事や、帰宅時に歓迎委員会が待っているかもしれない状況を思うと、ちょっと落ち着かなくなることもあった。フレディは家を出るときには、常にその準備をしていた。彼はいつもそれが『仕事』の一部だと言っていた。ファンは彼に全てを与えてくれたのだから、それは彼がファンに何かを返すための方法だったんだ。
彼は自分がファンにどれだけ愛されているかを知っていた。没後20年たって尚、恋い慕われる事になろうとは思ってもなかっただろうけどね。彼にとってファンがいかに大切な存在であったかはわかる。彼はよく、ファンに愛され、ショーを見て、音楽を買ってもらうことがなければ、こういう仕事はできなかっただろうと、言っていた。
闘病
(マジックツアー中にフレディ自身が気付いていたか)僕は彼が病気だと知っていたとは思わないが、何かがおかしいことに気づいていて、その原因を疑っていたのではないかと思っている。 大規模なスタジアムツアーではあったが、ヨーロッパでしか行われなかった。彼はショーのペースを熟知していたはずなのに、いつもよりもずっと疲れを感じていた。ツアーの最後に、彼は疲れ果て、しばらくの間はもうツアーはしないと言っていた。家にいる時間、おかれた現実を考え、何が違ってきているのかを熟考する時間があった。彼は1987年のイースターまでこのことを認めることができなかった。
(87年春だろうと思っている。)彼の手首に生検の跡を見たんだ。フレディ自身が生検の結果を話してくれたのは、生検が行われてから約6週間後の事だった。フレディはそれ以前から疑っていたかもしれないけれど、ガーデンロッジの誰にもそれを口にすることはなかった。
僕たちは、フレディが音楽を作ることにほとんどの時間を捧げ、集中して取り組んでいる事に気がついた。音楽はフレディの命であり、音楽への愛が彼に、そして私たち全員に時間を与えてくれたと信じている。思い起こせば、1989年10月にはフレディは1989年のクリスマスを見られないかもしれないと言われていたが、彼は医者を驚かせ、さらに1年半をレコーディングにかけたんだ。
遺言ではHIV/AIDS研究に対し何も残していないが、彼は人生の最後の4年間で、第3者を通じ様々なHIV/AIDSの慈善団体に多額の寄付をしていた。
彼が最後に言った言葉は 「ありがとう 」だった。 彼に寄り添った夜への感謝なのか、それとも12年間共にあったことへの感謝なのか、今となってはわからない。僕にはわかるはずもないことなんだ。
フレディの人柄を3つの言葉で表現するなら。誠実、寛容、慈愛(Loyal, Generous and Kind)。何千もの言葉のなかで、それが最もふさわしい。
僕たちはお互いを理解し、揺るぎない信頼関係を築いた。フレディのもろさも知っていた。だからこそ彼を守るため、そばにいたいと思っていた。