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執筆者の写真QUEEN NOTE

ジョン・リードとクイーン




1975年8月にトライデントとの契約を解消すると、クイーンはジョン・リード時代を迎える。と、言うことで、このポストは『トライデントとクイーン』のその後の話になる。


ジョン・リード(1949.9.9ー)は、スコットランドに生まれる。大学で海洋工学を学んでいる時にモータウンに出会い、18歳でEMIのTamla Motownレーベルに職を得る。「モータウンへの情熱からビジネスに導かれた」と70年代のインタビューで本人は語っている。(※1)リードは若いながら現場で評価され、Tamla MotownレーベルのマネージャーとなりEMIで出会ったデヴィット・クローカーと共にEMIを出て、71年にエルトン・ジョンのロケットエンジニアリング社を立ち上げる。驚きの22歳。エルトンとの出会いや、起業の経緯はものすごく入り組んでいそうなので割愛。


話を1975年初頭のクイーン界隈に戻す。2月からのSheer Heart Attack USツアー中。クイーンは何人かのマネージャー志願者と面会する。クイーンは甘いささやきには応じなかったが、とはいえトライデントとの契約解除後のマネジメント探しは急務で、ジム・ビーチが何人かの人物に声をかける。


ピーター・グラント(Led Zeppelin)

ピーター・ラッジ(The Who)

ハーヴェイ・リスバーグ(10cc)

ジョン・リード(Elton John)


が、ジム・ビーチが声をかける前からジョン・リードの元には、EMIつながりのデヴィット・クローカーからクイーンマネジメントの打診があり、両者の間でどうするこうするの腹のさぐり合いがあったそうな。(この辺はLive Aidの出演経緯とも似ているね)


クローカーは、72年夏にトライデントがEMIに3アーティストのセット契約を打診してきた時からクイーンに目をつけていた。後にクローカーはこういったブローカー紛いの行為をしたのは、エルトンとクイーンの2組だけだと明かしている。


こうしてクイーンは

1975年8月トライデントと契約解除。

1975年9月ジョン・リードと3年のマネジメント契約を結ぶ。


リードの一番最初の仕事はトライデントとの違約金10万ポンドの工面。こちらも交渉力がモノをいい、見事EMIからロイヤリティ先払いの形で調達する。




同年9月19日には新体制のお披露目パーティーがロンドン・コロシアムで華々しく開かれる。ここからは10/31"Bohemian Rhapsody"、11/21"A Night At The Opera"のリリース。クイーンは破竹の勢いでスターダムへ。


これは、あくまで妄想ですが、リードのプロモーション手法、76年の夏のミニツアー(ハイドパークはリチャード・ブランソン主導)、行動力があって動きの派手なマネジメントはフレディも大満足だったのでしょう。それに加え、彼もまたゲイ。距離感にハラハラさせられる写真も複数見られ、ビジネスだけでない、痴情のもつれもあったのかもしれません。ここはばっさり割愛。


結局、契約の3年よりも8ヶ月早く、78年1月をもって、リードとの契約は解消となる。


一般的に言われるのが、リードのマネジメント体制、エルトンとクイーン、二足の草鞋で、しかもエルトンが優先される状況には無理があったと言う説。


二足の草鞋をフレディが嫌った証言は、75年のオペラUKツアーにトニー・ブレンズビーがマッカートニーとのツアーの為不在にしたときにも爆発している。


また後年、日本ツアー以降関係が深かった宇都宮カズ氏が語った言葉も興味深い。



フレディ は、「俺たちとの仕事を成功させたいんだったら、こうすればいいんだ。他にどんなバンドを担当していたとしても、俺たちと仕事をしている間は、俺たちだけの仕事をしていると感じさせてくれ。そうすれば必ず成功するよ」とアドバイスをくれた。

ROCK JET『フレディ・マーキュリー・ファイル』2006 [スマイルからクイーンの最後までを見続けて]カズ・宇都宮インタビュー 聞き手/藤竹 俊也、佐藤 睦 p.93


リードとの契約に話を戻す。リード本人の語るところによれば

「自分のビジネスライフの中で最も円満な別れ」だったと言う。


この契約期間を満了しない決裂は下記の代償と、報酬をもって締結した。


◎3年満了分までの報酬を違約金として支払う。

◎契約期間中発売タイトルの印税15%を支払う。

◎ピート・ブラウン、ポール・プレンター、ゲリー・スティッケルズの3名の引き抜き。


残り8ヶ月分の契約反故の代償として、印税15%は暴利ではないだろうか

リード氏はしたり顔だったでことでしょう。

どうしても8ヶ月まてなかった理由が気になってしょうがありません。


『円満』の裏で業界内で囁かれた話をノーマン・シェフィールドが自著で語っています。



文章内でも「聞いたところによると」と、あるので信頼性には欠ける情報です。そもそも内容については書かれていない。


この話があって、その後の話なのか、リード氏との契約解消は、1978年1月、"Spread Your Wings""We Will Rock You"のビデオ撮影中、ロジャーの自宅庭に停められた、フレディのロールスロイス・シルバーシャドウの中でサインされる。リードとの契約解消を祝し、後付け、ほとんど成り行きでRock Youの撮影が行われたと、記述のある本もある。(※2)ああ深酒。





この契約ならびに解除についてはドキュメンタリーでの当事者談があります。

このドキュメンタリーのものが公式見解です。


ありがとう!リード氏に乾杯!


 

参考文献


Norman J Sheffield『Life on Two Legs』2013 Trident Management Ltd


ジョージ・トレムレット『クイーン:きらめくロックの貴公子たち』1977 新興楽譜出版社


ジャッキー・ガン,ジム・ジェンキンズ『クイーン:果てしなき伝説』1995 扶桑社


レスリー・アン・ジョーンズ『フレディ・マーキュリー:孤独な道化』2013 ヤマハ


ROCK JET『フレディ・マーキュリー・ファイル』2006


Georg Purvis『Queen: Complete Works (revised and updated) 』2018 TITAN ※2

 

参考サイト


Elton John’s Longtime Manager on Early Days With ‘Reg’※1


How Scottish pop guru who managed Elton John and Queen saved iconic Edinburgh Playhouse


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