初期のクイーンのサウンドを語る上で、プロデューサーでありレコーディングエンジニアでもあるロイ・トーマス・ベイカーの存在を欠かすことはできない。
ロイ・トーマス・ベイカー (1946.11.10ー)はロンドンに生まれ、12歳でプロデューサーを志し、学業を終えた14歳にデッカ・レコードのクラシック部門、アシスタントエンジニアからキャリアをスタートさせる。1960年代後半プロデューサーのGus Dudgeonの勧めでトライデントに移籍する。
1971年、クイーンは新しくオープンしたデ・レーン・リースタジオの慣らし運転の要員として無料でスタジオをモニター利用する幸運を得て、9月から12月にかけて、5曲のデモトラックを収録する。クイーンとロイはその場で出会い、その際の様子をロイ自身がBBCラジオで1982年に語っているので、音声と文字起こしを引用する。
ちょうど彼らの2ndアルバムを、ロンドンにオープンしたばかりのスタジオ、ウェンブリーのディ・レーン・リーでレコーディングしていたんだ。彼らのプロデュースをしていたのは、僕の元パートナー、ジョン・アンソニーがかつてプロデュースしたバンド、スマイルのメンバーだった。ジョンが「ちょっとバンドを見て、感想を教えて」と言うので、僕は「バンドを見るのも構わないけど、スタジオをチェックさせてよ」と言ったんだ。新しいスタジオだったからね。ま、とにかくスタジオに行き、そのバンドの様子を見ていた。彼らは当時、クイーンと名乗り、ちょうど「炎のロックン・ロール」のデモをやっていて、僕はその凄さにすっかり興奮してしまい、チェックをしにいったはずのスタジオの様子はすっかり忘れてしまうほどだった。クイーンの24トラックのデモは本当に素晴らしかったんだ。それに心から楽しんでいる様子がよくわかった。
Roy Thomas Baker “The Record Producers” 1982 BBC Radio
「2ndアルバム」や「プロデュース」の言葉が並び???となるが、諸々の書籍情報をまとめると、71年デビュー前のクイーンはデ・レーン・リーでデモトラックを録音。そこにエンジニアとして同席していたジョン・アンソニー(スマイルのプロデューサー)が、ロイを呼んだという流れ。
アンソニーとロイはクイーンを獲得すべくトライデントのシェフィールド兄弟を説得。クイーンの発掘からデビューの立役者となった。
ロイとの仕事ぶりのわかるブライアンのインタビューを書籍から引用します。
インタビュー時期は1979年5月5日札幌公演前。
1枚目『Queen』から4枚目『A Night at the Opera』までをロイが続けて
5枚目『A Day at the Races』で初のセルフプロデュースに挑戦
6枚目『News of the World』アシスタントエンジニアにマイク・ストーンを迎えて
7枚目『Jazz』はロイとクイーンとの最後の作品となる。
ロイとクイーンのパートナーシップについては、フレディ とロジャーが1977年1月31日号Circus Magazineに『A Day At The Races』のセルフプロデュースを説明する際に語っている。
クイーンのベテランプロデューサーであるロイ・トーマス・ベイカーの不在について説明した。「僕たちは少し変化が必要だったし、自分たちでやれるって自信もあったんだ。 共同制作した他のアルバムで、すごく強くやってみたくなったんだ。」 「すごく円満だったよ。」とドラマーのロジャー・テイラーはすぐに付け加えた。 「ロイは国内外で活動してる。一部のラフミックスは聞いてんじゃないかな、きっと。 多分、次の作品には戻ってくるよ。」一方でマーキュリーはクイーン初のスタジオ自活の試みに非常に満足している。 「良くなったと思うよ。」と彼は強調する。 「より多くを担うのは、僕たちにとってもいいことだよ。 ロイの存在は大きいけど、これは前進なんだ、本当。僕たちのキャリアの別の段階なんだ。今やるかずっとやらないかなんじゃないかって、ただ感じたんだ。」
『Circus Magazine』1977年1月31日号 p.31 (全文はこちら→)
また81年には日本の音楽誌『音楽専科』において、ロイ本人の言葉でクイーンの卒業について語っている。
ー最近、クイーンは自分たちでプロデュースしているようだけど、あなたとクイーンの間に何かあったの? ロイ ノー。ボクらは今でもすごく仲がいいよ。一緒に仕事しなくなった最大の原因は、彼らはイギリスに、ボクはアメリカに、お互い離ればなれに暮らしているということさ。それに、彼らはもう昔みたいにあくせく働かなくてもいい環境にいるし。そうなるとレコードの作り方だって変わってくると思うんだ。クイーンは一つの時期を通り越したんだから、いろいろとやり方が変わって当然だよ。今じゃボクは必要な存在でなくなってきたんだ。でも、それでいいんじゃないの。
星子誠一『「特別インタビューROY THOMAS BAKER」音楽専科 』1981年2月号
最後の引用です。2005年トライデントのアシスタントエンジニア、ゲイリー・ランガンのインタビューがスタジオでの雰囲気をよく伝えていると思います。
モノ言うプロデューサー、ロイ。
1st アルバムから"Mad the Swine”が外れたのは、クイーン側とロイの間でドラムサウンドで意見の相違があったからとも伝えられています。上で引用したブライアンのインタビューにもあるように、ロイはドライな音を好み、対してクイーン側はライブなサウンドを好んだ。そこら中にモニターを配置し、デッドなスタジオ音響を生きたものにすべく対立したりもしたそうです。
ロイの後、マック、デヴィット・リチャーズと新たにエンジニアを迎え入れたクイーン。サウンドにどんな影響を及ぼしたか、そこにどんなケミストリーが働いたか、もう想像するだけでワクワクします。
参考文献
ジャッキー・ガン,ジム・ジェンキンズ『クイーン:果てしなき伝説』1995 扶桑社
ピーター・K.ホーガン『クイーン全アルバム解説』1994 シンコー
Norman J Sheffield『Life on Two Legs』2013 Trident Management Ltd
フィル・サトクリフ『クイーン 華麗なる世界 UPDATED EDITION』2020 シンコー
ハワード・マッセイ,ジョージ・マーティン『英国レコーディング・スタジオのすべて』2017 DU BOOKS